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「トピックス」の記事一覧

会津弁について

皆さんこんにちは。
今回は福島県の会津地方の方言について紹介していきたいと思います。
中でも会津出身の私がたまに使う、会津若松市の代表的な方言を書いていきます。
どうぞ寄って行って下さい → 寄ってがっしぇ
走って行かないと間に合わないよ → とんでがねーど、間に合わねなーし
あいばっせ → 行きましょう
あいべ → 出かけるよ、行くよ
あがらんしょ → めしあがってください、中へお入りください
うすらかすら → たむろする、目的もなしにぶらぶらしている
うまぐね → 良くない、まずい
うるかす → 水につけておく
おだれる → 折れる
おめえ → あなた
おんもしぇ → 面白い
がなる → 大声で言う
きかね → 言うことを聞かない、気が強い
きんな → 昨日
くれる→ あげる・もらうの両方の意味
くんつぇ → ください
け → 食べろ、食え
げす → 尻
けっぽる → 蹴る
こー → おいで
こえー → 疲れた
ごっつお → ごちそう
こめら → 子ども
さすけね → 大丈夫だ、問題ない
ぞうさねぇ → 簡単だ、すぐできる
たくさん → 充分、お腹いっぱい
たまげた → 驚いた
なげる → 捨てる
なじょすんべ → どうしよう
はっこ → 早くおいで
はらくっち → お腹いっぱい
ばんげ → 夜
ぶすぐれる → ふくれっ面をする
ぼっこれ → 壊れている・使い物にならない物に言う
まんま → ご飯・食事
やっこい・やっけー → やわらかい
やんだ → いやだ
よがんべ → いいでしょう、OK
よっぱ(ら) → たくさん、飽きるほど
わが → 自分
んだ → そうだ
んだがら → そうなのよ、という相槌
んだげっちょ → そうだけれど
んだべした → そうでしょう
んでね → そうではない
まだまだ他にも色々と方言がありますが、このくらいにしておきます。
皆さんも自分の出身地などの方言を調べてみてはいかがでしょうか。
宿泊部 佐藤(友)

野口英世について2

皆さんこんにちは。
今回は野口英世の色々なエピソードをお伝えしたいと思います。
• 少年期の野口は家を疎ましく思い、死を覚悟するほど家を出たいと願っていた。
高野川ほとりでのこのような口論があった旨、姉・野口イヌの後年の回想にある。イヌ「私は家を出て行くので、長男のお前があの家を継ぎなさい」清作「俺は継ぎたくない。
姉さんが婿をとって継いでくれ。あんな希望のない百姓の家などいらない、姉さんにくれてやる。」押し問答を続け、しまいに清作は川に飛び込もうとする。
清作「俺が家を継がねばならないなら死ぬ。」
• 野口の父は酒好きの怠け者であり、野口家の貧困に拍車をかけた人物として、伝記では批判の対象とされることが多いが、本人は特に悪人というわけでもなく、性格的にはむしろ人好きで好印象な人物であったと言われる。
後年、野口が恩師や友人たちを巧妙に説得して再三にわたり多額の借金を重ね、借金の天才とまで呼ばれたほどの野口の要領の良さ・世渡りのうまさは、良くも悪くも彼の父から受け継いだ才能であったと言われている。
• 野口の母は農作業のかたわら、副業として産婆を営んでいた。
産婆の開業について政府による新しい免許制度が創設され、全ての産婆に免許の取得が義務付けられた時、母は文字の読み書きができなかったが、近所の寺の住職に頼み込んで一から読み書きを教えてもらい、国家試験に合格、正式な産婆の免許を取得し、生涯に2000件近くの出産に貢献した。
この点において、野口と母は奇しくも親子二代にわたって医学関係の仕事に携わっていたと言える。
• 会津若松の書生時代に洗礼を受けた日本基督教団若松栄町教会で出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送る。
しかし女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受ける。
その後東京の済生学舎で、逝去した医師の父の後を継ぐため、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指す山内に再会し学友となり、頭蓋骨を贈呈している。
1899年、清国に出向く直前には正装し湯島に下宿する山内に会いに行き、また清国より帰国した折には野口と山内の名を刻んだ指輪を贈っている。
山内はそれを迷惑と感じたようで下宿の主婦に依頼し以降の面会を拒否した。
その後山内は1902年、20才で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚、会津若松で三省堂医院を開業。
野口は山内の従兄弟である菊地良馨経由で山内が結婚した事を知り「夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え」との一文を菊池に送っている。
野口が日本に帰郷した際の記念写真には、山内の姿がある。
• 野口は貧乏育ちのためか金銭感覚に疎く、非常に金遣いが荒かった事で知られるエピソードが多い。
留学前に血脇からもらった500円という大金さえも遊興で使い切ってしまった時には、血脇もさすがに呆れてしばらく言葉を失ったと言われる。
それでも血脇は野口の才能を信じて金貸しの所へ行き、野口の為に再び留学資金を準備した。この事に野口は涙を流したと言われている。
• 渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となった。
血脇とやりとりされた手紙の中で幾度もこの件に触れており、斎藤ます子に対し「顔も醜く学がない」旨の評がある。
血脇は破談を薦めるが、野口は自ら破談にする事はなく先方から破談されるよう策していた。
現代と適齢期の常識が異なり、婚期を逃す事を恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、野口からは数年は研究で帰国できないと宣言する、欧州への留学資金を数千円要求するなど、ずれたやりとりが多く見られる。
• フレクスナーに渡した履歴書には、1893年、5月に東京医科大学に入学し3年で卒業とあり、ロックフェラー医学研究所の公式記録にもその旨記載されている。
実際には1893年には会津若松で書生をしており、その後も医術開業試験予備校である済生学舎にも数ヶ月通っただけであった。
またアメリカで出した初論文から一貫して医学博士(M.D.)であることを明示していたが、日本には当時医学博士は数十人程度しかおらず、学歴詐称・肩書詐称の状態であった(もっとも済生学舎は当時、「東京専門学校済生学舎」と称しており、医師免許取得とともに卒業を認定したので、東京専門学校済生学舎の卒業生であること自体は事実である。
1927年に友人・堀市郎がアメリカの新聞記者に取材を受けた際に苦学生であったことを説明するために野口が大学を卒業していないことを語ったところ、憤慨し、電報で取り消しを求めた。
• アメリカに渡った後に母親にアメリカの自分の住所が刻印された判子を送っている。
これは母親が大変字が下手な事を考慮して送った物である。
一度の帰国も母親からの手紙に端を発しており、帰国した折には母親とずっと一緒に居たとも伝えられている。
• ニューヨークでの将棋の相手は、絵の師でもある写真家堀市郎であり、囲碁の相手は、彫塑家川村吾蔵があたった。
「野口さんが勝ち出すと、堀君が待ったをかけ、三手、四手も遡って最後に堀君が勝つまで待ったをする。2回戦は野口さんが勝つ。それで一勝一敗で夜遅くなり、その翌晩に対戦する。これが幾晩も幾年も続いた」と川村吾蔵が野口英世と堀市郎の将棋の様子を「野口博士との思い出」で綴っている。
• 1904年、24歳の時に、星一の計らいでアメリカ・フィラデルフィアに滞在していた前総理大臣伊藤博文の宿舎を訪ね、1時間ほど歓談を行っている。
後にお互いが千円紙幣の肖像に採用される。
• 1922年、血脇がアメリカを訪れたとき、野口は大喜びして何日間も朝から夜までつきっきりで案内してまわった。
血脇が講演するときには通訳を買って出て、「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介し、忙しいスケジュールの中を大統領にまでも会わせた。
別れ際、血脇は「君が若い頃は色々と世話をしてあげたが、今度は大変世話になった。これでお相子だな」と言ったが、野口は「私はアメリカに長く生活してきましたが、人の恩を忘れるようなことは決してしません。
どうか昔のように清作と呼び捨てて下さい。その方が私にとってどんなにありがたいかしれません」と言い返した。
Noguchi_Hideyo.jpg
これで野口英世の歴史を終わります。
宿泊部 佐藤(友)

野口英世について1

みなさんこんにちは。
今回は現在の1000円札のモデルにもなった野口英世さんの語録を紹介したいと思います。
1・・・志を得ざれば再び此の地を踏まず
     (青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉)
2・・・人生の最大の幸福は一家の和楽である。
    円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない。
3・・・努力だ、勉強だ、それが天才だ。
    誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。
4・・・絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。
5・・・ナポレオンは三時間しか寝なかった(口語)
6・・・偉ぐなるのが敵討(ガタキウ)ちだ(口語)
7・・・自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ。
8・・・学問は一種のギャンブルである。
9・・・名誉のためなら危ない橋でも渡る。
10・・・忍耐は苦い。しかし、その実は甘い。
11・・・英雄却相親。
12・・・人の一生の幸せも、災いも自分から作るもの、周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである。
13・・・まて己 咲かで散りなば 何が梅
    (順天堂医院の助手の頃に詠んだもの)
次回は野口英世さんの生い立ち等を紹介致します。

鶴ヶ城の歴史3(近現代)

皆さんこんにちは。
今回は鶴ヶ城の歴史(近現代)を書きたいと思います。
近現代
開城から天守の取壊しまでの歴史
1868年(明治元年)9月に開城すると新政府軍の手に渡され、翌年から兵部省の所管となり、後に仙台鎮台が管理した。
1869年(明治2年)、若松県庁が本丸内の建物に置かれたため、若松県が管理を委任されていた。
1872年(明治5年)に、パリ外国宣教会のマラン神父とスイス人で横浜居留地で生糸輸出商を営み、デンマーク領事も兼ねていたエドゥアール・ド・バヴィエらが、養蚕視察のため函館から横浜まで旅行をし、若松城に立ち寄った。
その時、バヴィエらに雇われ、旅行に同行した日本人写真師が撮影したのが、今に残る取り壊し前の若松城の古写真の一部である。
WAKAMATU TORI.png
この旅行記は『函館から横浜までの旅』として、フランス語で出版され、若松城の銅版画が挿絵のひとつとして使われた。
マラン神父らによる東北地方の旅行は、1878年(明治11年)のイザベラ・バードによる『日本奥地紀行』の6年前のことである。
1873年(明治6年)1月、明治政府による『全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方』により存城処分と決定された。
同年12月には『旧若松城廃毀之儀ニ付建言』により若松県権令沢簡徳から政府に城郭建造物の取壊しが建言された。
1874年(明治7年)1月には、「旧若松城は営所建築の場所であるので、石垣や立樹等を除き旧来の建物で必要無いものは取壊し払下げすべく取り計らう事」とされ、同年までに天守をはじめとする建造物は総て解体された。
本丸にあった櫓の一つである「御三階」は上記建言以前の1870年(明治3年)、阿弥陀寺(会津若松市七日町)に移築され、現存している。
本丸の大書院の唐破風の表玄関は、御三階と共に阿弥陀寺に移築され、御三階の玄関に利用されている。
城郭地の払下から史跡指定まで
1890年(明治23年)明治政府により、城地約29haが明治政府から松平家に払い下げされた。
1908年(明治41年)に三ノ丸の東側と城外にわたり陸軍の連隊練兵場が設置され、三ノ丸の一部とその濠や土塁約6haが撤去されたが、本丸、二ノ丸、三ノ丸の一部、北出丸、西出丸及び付属する濠は残され、現在の史跡指定部分約23haは保存された。
1917年(大正6年)には、若松市の依頼により、旧会津藩士(白虎隊士)である東京帝国大学総長の山川健次郎の紹介で東京帝国大学農科大学教授の本多静六によって「若松公園設計方針」が示され、城跡の近代公園化の方針が計画された。
1927年(昭和2年)までには城跡の所有者であった旧藩主の松平家との10年賦による土地譲渡契約の償還が終了し若松市の所有となった。
公園近代化の方針に基づき二ノ丸や西出丸の一部の石垣等が撤去されたことにより、城跡の緊急保存を目的として、1930年(昭和5年)に旧史蹟名勝天然紀念物保存法の規定により福島県によって国の史跡に仮指定され、1934年(昭和9年)12月28日には文部省告示第312号によって本指定された。
この「若松公園設計方針」では、後に史跡区域内となった、旧追手前から北出丸までの追手前西濠上への架橋や水位の異なる南町通濠と旧五軒丁濠との間の土橋を撤去しボートレース場とする計画も示されたが、実行されなかった。
天守の再建と史跡の保存整備計画
第二次世界大戦後、戦後の財政非常事態解決策の一環として、本丸内で競輪場が設置されていたこともあるが1957年(昭和32年)には城外に移転された。
本丸は1960年(昭和35年)までには現在の形状に復旧された。
現在の天守は1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されている。
1990年(平成2年)に茶室「麟閣」(福島県指定重要文化財)が本丸の元の場所に移築復元され、1993年(平成5年)に外濠跡等の外郭遺構の一部が国の史跡に追加指定された。
1997年(平成9年)に史跡内の駐車場や運動施設等を史跡外へ移転する内容等を含む長期的、総合的な「史跡若松城跡総合整備計画」が策定された。
2001年(平成13年)に本丸内の干飯櫓(ほしいやぐら)と南走長屋が復元された。
天守閣.jpg
これで3部構成の鶴ヶ城の歴史は終わりになります。
皆さんも鶴ヶ城に行き、歴史を学んでみてはいかがでしょうか。
宿泊部 佐藤(友)

鶴ヶ城の歴史2(近世)

皆さんこんにちは。
前回は鶴ヶ城の中世の歴史を紹介しましたが、今回は鶴ヶ城の近世の歴史を紹介したいと思います。
 鶴ヶ城 ライトアップ.jpg
近世の城郭
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。
氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。
なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。
近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。
1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。
越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。
翌1601年(慶長6年)には蒲生秀行が再び入城したが、1627年(寛永4年)、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。
代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611年(慶長16年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。
1643年(寛永20年)、加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。
1868年(慶応4年)、戊辰戦争の際には会津戦争にて、会津勢の立て篭もる若松城は1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢に、薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかったが、その後開城された。
戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却を迎えている。
次回は鶴ヶ城の近現代の歴史を紹介します。
宿泊部 佐藤(友)

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