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野口英世について2

皆さんこんにちは。
今回は野口英世の色々なエピソードをお伝えしたいと思います。
• 少年期の野口は家を疎ましく思い、死を覚悟するほど家を出たいと願っていた。
高野川ほとりでのこのような口論があった旨、姉・野口イヌの後年の回想にある。イヌ「私は家を出て行くので、長男のお前があの家を継ぎなさい」清作「俺は継ぎたくない。
姉さんが婿をとって継いでくれ。あんな希望のない百姓の家などいらない、姉さんにくれてやる。」押し問答を続け、しまいに清作は川に飛び込もうとする。
清作「俺が家を継がねばならないなら死ぬ。」
• 野口の父は酒好きの怠け者であり、野口家の貧困に拍車をかけた人物として、伝記では批判の対象とされることが多いが、本人は特に悪人というわけでもなく、性格的にはむしろ人好きで好印象な人物であったと言われる。
後年、野口が恩師や友人たちを巧妙に説得して再三にわたり多額の借金を重ね、借金の天才とまで呼ばれたほどの野口の要領の良さ・世渡りのうまさは、良くも悪くも彼の父から受け継いだ才能であったと言われている。
• 野口の母は農作業のかたわら、副業として産婆を営んでいた。
産婆の開業について政府による新しい免許制度が創設され、全ての産婆に免許の取得が義務付けられた時、母は文字の読み書きができなかったが、近所の寺の住職に頼み込んで一から読み書きを教えてもらい、国家試験に合格、正式な産婆の免許を取得し、生涯に2000件近くの出産に貢献した。
この点において、野口と母は奇しくも親子二代にわたって医学関係の仕事に携わっていたと言える。
• 会津若松の書生時代に洗礼を受けた日本基督教団若松栄町教会で出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送る。
しかし女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受ける。
その後東京の済生学舎で、逝去した医師の父の後を継ぐため、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指す山内に再会し学友となり、頭蓋骨を贈呈している。
1899年、清国に出向く直前には正装し湯島に下宿する山内に会いに行き、また清国より帰国した折には野口と山内の名を刻んだ指輪を贈っている。
山内はそれを迷惑と感じたようで下宿の主婦に依頼し以降の面会を拒否した。
その後山内は1902年、20才で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚、会津若松で三省堂医院を開業。
野口は山内の従兄弟である菊地良馨経由で山内が結婚した事を知り「夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え」との一文を菊池に送っている。
野口が日本に帰郷した際の記念写真には、山内の姿がある。
• 野口は貧乏育ちのためか金銭感覚に疎く、非常に金遣いが荒かった事で知られるエピソードが多い。
留学前に血脇からもらった500円という大金さえも遊興で使い切ってしまった時には、血脇もさすがに呆れてしばらく言葉を失ったと言われる。
それでも血脇は野口の才能を信じて金貸しの所へ行き、野口の為に再び留学資金を準備した。この事に野口は涙を流したと言われている。
• 渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となった。
血脇とやりとりされた手紙の中で幾度もこの件に触れており、斎藤ます子に対し「顔も醜く学がない」旨の評がある。
血脇は破談を薦めるが、野口は自ら破談にする事はなく先方から破談されるよう策していた。
現代と適齢期の常識が異なり、婚期を逃す事を恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、野口からは数年は研究で帰国できないと宣言する、欧州への留学資金を数千円要求するなど、ずれたやりとりが多く見られる。
• フレクスナーに渡した履歴書には、1893年、5月に東京医科大学に入学し3年で卒業とあり、ロックフェラー医学研究所の公式記録にもその旨記載されている。
実際には1893年には会津若松で書生をしており、その後も医術開業試験予備校である済生学舎にも数ヶ月通っただけであった。
またアメリカで出した初論文から一貫して医学博士(M.D.)であることを明示していたが、日本には当時医学博士は数十人程度しかおらず、学歴詐称・肩書詐称の状態であった(もっとも済生学舎は当時、「東京専門学校済生学舎」と称しており、医師免許取得とともに卒業を認定したので、東京専門学校済生学舎の卒業生であること自体は事実である。
1927年に友人・堀市郎がアメリカの新聞記者に取材を受けた際に苦学生であったことを説明するために野口が大学を卒業していないことを語ったところ、憤慨し、電報で取り消しを求めた。
• アメリカに渡った後に母親にアメリカの自分の住所が刻印された判子を送っている。
これは母親が大変字が下手な事を考慮して送った物である。
一度の帰国も母親からの手紙に端を発しており、帰国した折には母親とずっと一緒に居たとも伝えられている。
• ニューヨークでの将棋の相手は、絵の師でもある写真家堀市郎であり、囲碁の相手は、彫塑家川村吾蔵があたった。
「野口さんが勝ち出すと、堀君が待ったをかけ、三手、四手も遡って最後に堀君が勝つまで待ったをする。2回戦は野口さんが勝つ。それで一勝一敗で夜遅くなり、その翌晩に対戦する。これが幾晩も幾年も続いた」と川村吾蔵が野口英世と堀市郎の将棋の様子を「野口博士との思い出」で綴っている。
• 1904年、24歳の時に、星一の計らいでアメリカ・フィラデルフィアに滞在していた前総理大臣伊藤博文の宿舎を訪ね、1時間ほど歓談を行っている。
後にお互いが千円紙幣の肖像に採用される。
• 1922年、血脇がアメリカを訪れたとき、野口は大喜びして何日間も朝から夜までつきっきりで案内してまわった。
血脇が講演するときには通訳を買って出て、「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介し、忙しいスケジュールの中を大統領にまでも会わせた。
別れ際、血脇は「君が若い頃は色々と世話をしてあげたが、今度は大変世話になった。これでお相子だな」と言ったが、野口は「私はアメリカに長く生活してきましたが、人の恩を忘れるようなことは決してしません。
どうか昔のように清作と呼び捨てて下さい。その方が私にとってどんなにありがたいかしれません」と言い返した。
Noguchi_Hideyo.jpg
これで野口英世の歴史を終わります。
宿泊部 佐藤(友)

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