「2013年08月」の記事一覧
鶴ヶ城の歴史3(近現代)
皆さんこんにちは。
今回は鶴ヶ城の歴史(近現代)を書きたいと思います。
近現代
開城から天守の取壊しまでの歴史
1868年(明治元年)9月に開城すると新政府軍の手に渡され、翌年から兵部省の所管となり、後に仙台鎮台が管理した。
1869年(明治2年)、若松県庁が本丸内の建物に置かれたため、若松県が管理を委任されていた。
1872年(明治5年)に、パリ外国宣教会のマラン神父とスイス人で横浜居留地で生糸輸出商を営み、デンマーク領事も兼ねていたエドゥアール・ド・バヴィエらが、養蚕視察のため函館から横浜まで旅行をし、若松城に立ち寄った。
その時、バヴィエらに雇われ、旅行に同行した日本人写真師が撮影したのが、今に残る取り壊し前の若松城の古写真の一部である。
この旅行記は『函館から横浜までの旅』として、フランス語で出版され、若松城の銅版画が挿絵のひとつとして使われた。
マラン神父らによる東北地方の旅行は、1878年(明治11年)のイザベラ・バードによる『日本奥地紀行』の6年前のことである。
1873年(明治6年)1月、明治政府による『全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方』により存城処分と決定された。
同年12月には『旧若松城廃毀之儀ニ付建言』により若松県権令沢簡徳から政府に城郭建造物の取壊しが建言された。
1874年(明治7年)1月には、「旧若松城は営所建築の場所であるので、石垣や立樹等を除き旧来の建物で必要無いものは取壊し払下げすべく取り計らう事」とされ、同年までに天守をはじめとする建造物は総て解体された。
本丸にあった櫓の一つである「御三階」は上記建言以前の1870年(明治3年)、阿弥陀寺(会津若松市七日町)に移築され、現存している。
本丸の大書院の唐破風の表玄関は、御三階と共に阿弥陀寺に移築され、御三階の玄関に利用されている。
城郭地の払下から史跡指定まで
1890年(明治23年)明治政府により、城地約29haが明治政府から松平家に払い下げされた。
1908年(明治41年)に三ノ丸の東側と城外にわたり陸軍の連隊練兵場が設置され、三ノ丸の一部とその濠や土塁約6haが撤去されたが、本丸、二ノ丸、三ノ丸の一部、北出丸、西出丸及び付属する濠は残され、現在の史跡指定部分約23haは保存された。
1917年(大正6年)には、若松市の依頼により、旧会津藩士(白虎隊士)である東京帝国大学総長の山川健次郎の紹介で東京帝国大学農科大学教授の本多静六によって「若松公園設計方針」が示され、城跡の近代公園化の方針が計画された。
1927年(昭和2年)までには城跡の所有者であった旧藩主の松平家との10年賦による土地譲渡契約の償還が終了し若松市の所有となった。
公園近代化の方針に基づき二ノ丸や西出丸の一部の石垣等が撤去されたことにより、城跡の緊急保存を目的として、1930年(昭和5年)に旧史蹟名勝天然紀念物保存法の規定により福島県によって国の史跡に仮指定され、1934年(昭和9年)12月28日には文部省告示第312号によって本指定された。
この「若松公園設計方針」では、後に史跡区域内となった、旧追手前から北出丸までの追手前西濠上への架橋や水位の異なる南町通濠と旧五軒丁濠との間の土橋を撤去しボートレース場とする計画も示されたが、実行されなかった。
天守の再建と史跡の保存整備計画
第二次世界大戦後、戦後の財政非常事態解決策の一環として、本丸内で競輪場が設置されていたこともあるが1957年(昭和32年)には城外に移転された。
本丸は1960年(昭和35年)までには現在の形状に復旧された。
現在の天守は1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されている。
1990年(平成2年)に茶室「麟閣」(福島県指定重要文化財)が本丸の元の場所に移築復元され、1993年(平成5年)に外濠跡等の外郭遺構の一部が国の史跡に追加指定された。
1997年(平成9年)に史跡内の駐車場や運動施設等を史跡外へ移転する内容等を含む長期的、総合的な「史跡若松城跡総合整備計画」が策定された。
2001年(平成13年)に本丸内の干飯櫓(ほしいやぐら)と南走長屋が復元された。
これで3部構成の鶴ヶ城の歴史は終わりになります。
皆さんも鶴ヶ城に行き、歴史を学んでみてはいかがでしょうか。
宿泊部 佐藤(友)